正覚寺縁起
当寺は山号を十劫山といい、南(南部)彦七郎晴政公の領地を下賜されて寛永三年(1626)七月に念誉天竜大和尚によって開山された浄土宗寺院である。
 当初は盛岡の別地で開山された。場所は、現在地にほど近い梨木町から上田への登り口である高源寺坂を上がった高源寺跡であった。そこから盛岡城下の整備と共に、足軽侍町である上田組町のほぼ真ん中にあたる現在地に移転した。城下町の都市計画として、配置された寺である。
 上田組町は、城下町の北の入口にあたり、枡形門を備えた城下の守りを担う役割だった。
組町の中心に寺は位置し、住民は、城下に侵入する不審な者を発見した際には、直ちに報告や検分する役割があり、特に津軽者には警戒していた。
 江戸時代、城下町盛岡は、大火が度々あり、正覚寺も町内火災により、堂宇が何度か全焼している。現在の本堂は町内火災で焼失後、元治元年(1864)七月に再建されたものである。
 火事で寺の再建に苦慮した際、主君、南部利剛公が城内建物の木材をくださることになり、檀家一同で材木を運ぶなど普請を行った。これが現在の建物で、本来の寺院建築の様式では無い。城の役所建物であったと伝えられている。
 江戸時代、当寺の檀家は盛岡藩士が大半で近隣に居住していた。武士としての勤めの他に、内職で、草履として有名な南部表の製造、農作物の栽培、剣術の師範、寺子屋の師匠など様々な副業を持つ檀家が多かった。また近隣には山伏小路があり、子弟を山伏にする者。寺に入れて僧侶にする者もあった。
 明治初期の神仏分離令、廃仏毀釈では、当寺住職、津田倫応和尚と、藩士であった檀家一同が協力して、密かに南部盛岡藩に縁がある貴重な仏像、宝物の数々を正覚寺に請来している。
 当寺が位置する上田の地は、その名の通り、昔は長閑な田園地帯で、侍町の裏は一面の田んぼであった。目立たず、檀家数は少ないので、廃仏毀釈の仏像を隠すのには好都合であった。寺は近隣の田畑を所有し、小作料収入によって維持されていた。
 先の大戦では、多くの檀家、その子弟が戦地に出征し、戦死され、跡取りを失った家もある。寺も戦後の農地解放によって、寺所有の全ての農地が解放対象となった。
 寺院運営の基盤を失い、雑種地として僅かに残った土地も、近隣の道路整備によって県と市に寄付されている。
 戦後に青森から入寺した野田住職は、二十五歳の若さであったが、食事にも事欠くありさまで、二十九歳で病死している。一時期、寺の修繕もままならず、雨漏りが酷い荒れ寺となっていた。兼務寺院となり、仏像、宝物の売却、寺の統廃合の話が進められていた。


正覚寺  昭和30年代

 昭和三十年、盛岡藩の宝物を守る為、現住職の祖父、柴内興宗が盛岡藩士の家という縁から、盛岡藩士桑田と正覚寺檀家より住職をしてほしいとの話があり、岩手中・高等学校理事長先生の許可もあって、教員として働きながら、住職をすることになった。三田理事長先生の家も盛岡藩士である。それ以降、檀家様の協力により寺の整備が進み、興宗、興信の代に、新檀家様も増えた。
 正覚寺は、浅田次郎先生の小説、『壬生義士伝』の舞台となっている。またこの上田組町から、和洋学園創立者の堀越千代先生が士族の娘として、ご生誕されており、正覚寺に記念碑が建立された。
 当寺は盛岡三十三観音の十八番札所であり、
   『生まれずは この正覚をとらずとの 仏の誓ひ頼母(たのも)しきかな』

 の句が伝わっている。このようにして、当寺は令和八年、開山より四百年を迎える。